能「項羽」を知る

劉邦との最終決戦で項羽は四面楚歌に…。虞や虞や汝を如何にせん。

曲の題材は、「史記」、あるいは「太平記」の一節とも。舞台は古代中国、秦が滅んだあとの春秋戦国時代。季節は秋。
項羽は劉邦とともに秦を滅ぼして、楚王となるが、のちに劉邦と不和になり、「垓下の戦い」で敗北。項羽とともにあった寵姫虞氏は自害。項羽は深く悲しみ、自らもまた覚悟を決め、愛馬・騅から降りる。

あらすじ・STORY

項羽像中国揚子江の上流、烏江の野辺で草刈達(ワキ・ワキツレ)が様々な草花を持ち対岸に渡るべく川辺で待っていると、一人の老人(シテ)が船を漕ぎ寄せてくる。草刈が便船を頼むと老人から船賃を要求されたため、船に乗らずに上流へ向かおうとすると、ともかく乗るようにすすめられ、船で対岸に渡る。船から降りようとすると、老人は船賃のかわりに美人草を所望する。草刈がその謂れを尋ねると、老人は、昔項羽の后・虞美人が敗戦を悲しんで身を投げ、その死骸を埋めた塚から生えた故に美人草と呼ばれると説明する。男が更に、項羽・高祖(劉邦)の戦いの様を尋ねると、始めは項羽が連戦連勝だったが、裏切り者が出た為に四面楚歌となり虞氏は悲しみ自害したこと、愛馬が動かなくなった為、今はこれまでと自ら首をかき落とし、この烏江の露と消えたと詳しく語ると、自分こそ項羽の幽霊だといい回向を頼んで消え失せる。(中入)
草刈達が弔っていると、項羽(後シテ)が虞氏(後ツレ)を伴って現れ、虞氏が身を投げた次第や項羽がそれを悲しみつつ最後の奮戦をした様を再現する。

曲の「趣」・項羽編

古代中国の歴史に登場する中心人物は魅力的であり、その人物にまつわる物語もまた伝説に値する印象深いものです。
項羽と劉邦という人物、また、「垓下(がいか)の戦い」という史実を知るだけでも、能「項羽」の世界は広がり、その面白さも深くなるはずでせう。
前場、何故、ワキは「草刈男」で、シテが「船」に乗り登場するのか。史実を織りまぜたこの作品の奥深さにまた、世阿弥の偉大な才能を感じずにはいられません。

■項羽(こうう)《紀元前232~202》
中国、秦(しん)・漢交替期に現れた群雄の一人。名は籍、羽は字(あざな)。楚(そ)の将軍の家柄を引く貴族的階層に属する陳渉(ちんしょう)の反乱に乗じて秦に背き梁の戦死後、項羽は諸将のリーダーとなって秦の章邯(しょうかん)を破って関中に入り、秦の王、子嬰(しえい)を殺して咸陽(かんよう)を焼く。そして楚の懐(かい)王を推戴(すいたい)して義帝とし、自らは西楚の覇王と称した。このとき部下十八名を王に封じている。当初漢の高祖劉邦(りゅうほう)は王に封ぜられず、これに不満を抱き、項羽に反旗を翻した。(後に劉邦は漢王に封ぜられる)双方の戦闘はしばしば繰り返されたが、擁立した義帝を都合で殺した項羽に大義名分が失われたので、しだいに劉邦が優勢となっていく。《劉邦の部下の王陵の批評に、項羽は礼儀正しいが功臣に褒賞をやるのを渋り、劉邦は無礼だが物惜しみをしないといっている。》

劉邦(りゅうほう)《紀元前256~195》
中国、前漢朝の創始者(漢朝の君主としての在位は前二〇六年以降)で、初代皇帝。廟号(びょうごう)は高祖。字(あざな)は季(き)。江蘇(こうそ)省沛県の出身。父母は名も不明の庶民。農民の生まれ。紀元前二〇九年九月、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱が起こると、彼は沛の父老(村落の指導者層)に推されて挙兵し、沛の子弟3000人を統率し、沛公と称した。翌年、北上してきた項梁(こうりょう)、項羽(こうう)の軍に会い、連合。その後、項羽が北東方で秦(しん)軍の主力と決戦を展開している間に、劉邦は南方を西進し、南陽、武関を経て項羽より早く秦の首都咸陽(かんよう)を陥れ、秦王嬰(えい)を降伏させた。約一か月遅れて咸陽に到着した項羽は劉邦を殺害しようとしたが、周囲の助けにより難を免れる。秦が滅亡すると、項羽は西楚覇王(せいそはおう)と称し、劉邦は前二〇六年漢王に封ぜらた。《漢朝の名称の始まり》まもなく彼は、関中(陝西省中部、渭水(いすい)盆地)に進出。そして項羽が、戦国時代の楚の王族で名分上の共同の君主としていた義帝を殺害すると、劉邦はこれを名目として項羽を討つことを宣言し、漢と楚の抗争が始まる。
       ↓
項羽と劉邦はしばしば争っていたが、いよいよ最後の戦いとなる。
「垓下の戦い」へ

■虞妃(虞美人)
項羽の愛人。正確な名前ははっきりしておらず、「虞」は姓である(『漢書』)とも名である(『史記』)ともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。小説やテレビドラマでは項羽の妻として描かれ、虞を姓とし「虞姫」と紹介されているものが多い。項羽との馴れ初めについては『史記』にも『漢書』にも一切記載されておらず、垓下の戦いで初めて「劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍にはいつも虞美人がおり、項羽は片時も彼女を放すことがなかった」と紹介されている。また小説では項羽の足手まといにならぬために虞美人は自殺している。亡くなった虞美人の躯の上にはヒナゲシが咲き、「虞美人草」という異名がつく由来となった。
西施、王昭君、楊貴妃と並んで、中国四大美女の一人。
虞氏像ヒゲナシの花(虞美人草)

■垓下の戦いとは
百戦戦った項羽と劉邦の最後の戦い。劣勢となった項羽率いる楚軍は防塁に篭り、漢軍はこれを幾重にも包囲する。夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか。」と驚き嘆く。「故郷(楚国)が恋しくなった」と、項羽から離れてしまった兵士も少なくなかった。この故事から周囲を敵に囲まれることを「四面楚歌」と言うようになった。形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人という愛妾がおり、また騅という愛馬がいた。これらとの別れを惜しみ、項羽は自らの悲憤を詩に読んだ。

力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅(すゐ)逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 如何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を如何せん)

(その)勢威は山をも(改造して)引き抜き、気概は広く天下を掩っていた。《項羽の勢威が偉大な様をいう。》
時節は(わたしに)利していない。兵員・武器も食糧も尽き、漢軍四面皆楚歌という具合に全ての運が尽きようとしている。(愛馬)騅(すゐ)は進もうとしない。(私もまた兵を進める気力もなくなってしまった。)
(愛馬)騅(すゐ)が進もうとしないのを、本当にどのようにすべきなのか、どうしようもない。 
虞(美人)よ、虞(美人)よ、貴女をどのようにすればよいものか。

虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流した。
宴が終わると、項羽は夜を突いて残る800余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、灌嬰が五千騎の兵を率いてこれを追った。800の兵は次第に数を減らし、東城(現安徽省定遠県の東南)に辿りついたときには項羽に従う者わずか28騎になっていた。ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に「ここでわしが滅びるのは天がわしを滅ぼそうとするからで、わしが弱いからではない。これから漢軍の中に入ってこれを破り、それを諸君に知らしめよう」と述べ、28騎を7騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士80、90人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。
項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場(現安徽省和県の烏江鎮)に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長(宿場役人)は項羽に「江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることは出来ません」と告げた。 しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者8000を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再びわしを王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことが出来るだろうか。」と答えて亭長に愛馬・騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢はわしの首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前に徳を施してやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を巡って味方同士で殺し合いが起きたほどであった。結局遺体は五つに分かれ、呂馬童を含む五名にそれぞれ領地が五等分し渡された後に劉邦は項羽を手厚く葬った。

※項羽の死によって約五年続いた楚漢戦争は終結し、劉邦は天下を統一して前後約四〇〇年続く漢王朝の基を開く。
最後の決戦となった垓下(がいか)の敗北ののち死んだ項羽は、いまだ三十一歳であった。

  小島英明・自由学園明日館「能楽コトハジメ」テキストより抜粋

【参考文献】 『項羽と劉邦』(司馬遼太郎)/『能・中国物の舞台と歴史』(中村八郎)

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